花が苦手だが花見に行きたがる女
蓮の花が見たい!!とずっと思っていた。
というのも北海道で蓮を見る機会というのがあまりなかった。
お寺巡りが好きになるとあらゆる所で「蓮の花」が登場する。
極楽の世界には蓮の花が描かれていて、さぞかし実物は綺麗なんだろうと妄想はふくらみ。
京都で蓮の花を見るというのが些細な夢だった。
しかし。
私は基本的に花が苦手だ。
子供の頃にタンポポを摘んで遊んで、アレルギーで目がボコボコに腫れてしまってからというもの花粉を見るだけで鳥肌が立つ。
当時、花を摘んで遊んでる友達なんかを見たら、その子の手には触れたくなかったし。
「花粉=やばいもの」という認識が自分の中にできてしまった。
花の香りがすると花粉が飛んでいる気がして嫌だし。
家に飾るなんてもってのほか。
家に花を飾るというのは「花粉」のほかにもう一つ嫌なことがある。
ここからは心と思考の問題。
綺麗な花に自分の心が癒された後、悲しくも散る花を捨てるという行為が嫌いだ。
あんたなんてもう用無しよと言い放っているようなもんである。
あーなんて人間は勝手なんだと心が卑屈になるのである。
コレが人間だったら20代の女子がもてはやされて、年を取るともう用無しよと捨てられたら泣けるだろう。
そんなことを言うと知人に
「でも花は綺麗な時に見てもらえたら、それが一番幸せなんじゃないかな」
なんて言われたが。それはたしかにと思うが、
やはり、捨てる時はなんとも言えない気分になるに違いない。
用無しをあっさり切り捨てる自分。サイテーと思ってしまうのである。
そんな花嫌いの私が感動したのが京都の紅葉。
そして京都の桜だった。
散る儚さも美しいものだと。
京都のお寺や神社は自然と一体となって美を作っている。
枯れるものこそ美しい。その教えは仏教的なのかもしれない。
ということで、自分で花は触らない。飾らない主義だが。
美しいモノは見て癒されたいという人間の勝手な願望を叶えるためにも花見や紅葉狩りが自信から欠かせなくなった。
蓮の花も季節の花。一年でそう見れる時期は少ない。
宝筐院で出会った蓮の花。
美しすぎた。
細い茎に大きな花。
茎は細いがその茎は折れてしまわない程丈夫なんだろう。
池じゃなくて鉢に植えられていた。
鉢のサイズを超える程の大きな花が咲く。
それは見事としか言いようがない。
そして大きな葉には早朝に降った梅雨の通り雨が残る。
(この花の水をはじく原理から、ヨーグルトの蓋が改善されたのだとか)
あーたしかに極楽浄土にはピッタリの美しい花だ。
なんせ見た目が優雅だ。
京都のお寺には四季を感じる日本らしい美しい花や木々が多い。
そこには、長年にわたり育ててきた美もあると思う。
私が苦手なのは基本的に「切り花」であるようだ。
枯れておしまいになってしまわない花。
また来年もそこで咲いてくれる花には「生」を感じる。
そうだ。私は「死」が怖いんだ。
「花」が苦手と言ってきたが「切り花が苦手」ということに今度からしようと思う。